J7・・・一路難波へ・・・
戊午(つちのえうま)の春2月11日に、
神武らは、いよいよ東へ進軍しました。
難波(なにわ)の岬を通る時、潮の流れが速くなったので、
浪速国(なみはやのくに)と名付けました。
3月10日、河内国(かわちのくに)の草香邑(くさかのむら)の
青雲(あおくも)の白肩津(しらかたのつ)に到着しました。
夏の4月9日に、徒歩で竜田(たつた)に進みましたが、
道が険(けわ)しく、引き返しました。
解説・・・
戊午(つちのえうま)は、紀元前663年です。
J8・・・長髄彦(ナガスネヒコ)との戦い・・・
今度は東の生駒山(いこまやま)を越え
大和(やまと)を目指しましたが、
その時、敵の長髄彦(ナガスネヒコ)が待ち受けていて、
孔舎衛(くさえ)の坂にて、戦いとなりました。
この時、敵の流れ矢が、五瀬(イツセ) の肘(ひじ)に
突き刺さってしまいました。
このため、神武は兵に告げました。
「日の神の子の、わが軍が日に向っての戦いは、
これ天の道に背くもの、ここは一旦、退(しりぞ)こう」
解説・・・
この台詞(せりふ)、古事記では、イツセが言います。
J9・・・五瀬(イツセ)の死・・・
5月8日に、軍勢は、茅渟(ちぬ)の山城(やまき)の
水門(みなと)に到着しました。
この時、イツセは、痛みが一層ひどくなり、
「くやしい」と雄叫び上げて嘆きました。
それで、ここを雄水門(おのみなと)と呼ぶようになりました。
そして紀国(きのくに)竃山(かまやま)に着いたところで息絶えました。
神武は、兄を、ここ竃山に葬(ほうむ)りました。
解説・・・
茅渟(ちぬ)は、大阪府和泉市付近です。
竃山は、和歌山市和田(旧名草郡)で、竃山神社があります。