食べた人が思わずなんじゃこりゃ!と言ってしまう大福餅。このなんじゃこりゃ大福を生み出したお菓子の日高の日高久夫社長をおたずねしました。
創業の経緯をお聞かせ下さい
戦後、父親が宮崎駅前の青果商で働いていました。お見合いで母と結婚し、自宅を半分お店にして青果商を始めたようです。当時は宮崎市内の元宮町というところに住んでいましたが、元宮町は当時繁華街でにぎわっていました。
それで、今でいうコンビニのような営業形態だったんです。毎晩12時まで営業、青果だけでなく、化粧品などいろいろなものを売っていました。
昭和26年ごろの話です。
現在の場所に移られたのはいつ頃ですか
昭和29年になります。当時は橘通りが徐々に賑わい、繁盛し始めた時期で、山形屋とか橘百貨店などデパートが開業して商売の街として成長していました。
お菓子屋さんを始められるきっかけは?
昭和29年にこの現在の場所で店舗を構えることになって、森永エンゼルストアという森永が行っていたいわゆるFCのようなものに加盟しました。その森永の研修会で日本コンサルタントの講師に父親が聞いたそうです。「これからの商売として何がよいでしょうか?」そのコンサルタントはお菓子屋がよいと即座に答えたとのこと。これが出会いというかきっかけになったと聞いています。最初は黒砂糖饅頭というのを出していました。砂糖が統制品のため、黒砂糖になったようです。
それからお菓子屋さんとして歩み始めるのですね。
昭和33年、叔父がレストラン事業を始めたのです。当時としてはめずらしい、洋食のレストランでその名も「レストラン グランド」。百貨店の食堂が人気を集める頃で、単独店は珍しく、相当なインパクトがあり、連日にぎわっていました。
ところで、コンサルタントを使うことが多かったんですね
時代とともに、外部から見る人を重要視していました。当初は日本コンサルタントの方にお願いをしていたようですが、船井総研にお菓子の部会ができ、その方にお願いをするようになりました。その後どういう展開ですか
昭和38年から昭和43年くらいまではレストラン事業のウェイトが大きかったんですね。
しかし、レストランというのは待ちの商売なんです。一方お菓子屋さんは見込みを立てて生産し、販売する。より攻める感覚があるわけです。
感動というのは最初が大事です。レストランは最初に来た人がおいしいと思っても何度も足を運ぶかというとそうでもないんです。お菓子屋さんは一回目食べて感動し、今度はその感動をギフトとして他の人に贈るということがあるわけです。この流れがお菓子屋さんの付加価値となるのです。
日高社長と家業についてお聞かせ下さい
小学生のころからお店を手伝ったいました。洗いものや包装をしていましたね。大学は名古屋の名城大学に入りました。マージャンをよくやっていましたが、マージャンは商売のリズムに通じるところがあると思っています。アナログ的なシミュレーションゲームですね。
その後、東京の上野毛になる日本菓子専門学校に1年間いました。それから神奈川県の鶴見にある全機庵という菓子店に入ります。ここは総持寺のお茶菓子を担当する老舗です。
27歳の時に宮崎に戻り、自社で働くようになります。
御苦労もあったと思いますが
当時(昭和63年)2億円程度の売り上げでした。時代がバブルに入り、求人もままならず、これからどうするかが大きな課題となっていました。
そこで船井総研にお菓子の部会ができたのです。「1億円の店を作りましょう」というセミナーが開催され、参加しました。
300万円の企画書を、会社で買えないので個人で購入しました。
具体的にどういうことをやられたのですか?
【写真:なんじゃこりゃ大福】
売れる商品、ツイている商品を作りましょうということだったのです。コンサルになにが売れていますか?と聞かれ大福と答えました。
そこで大福が白いのでホワイトデイの贈り物にということで大福を20種品ぞろえしました。
当時イチゴ大福というのが流行っていて、これは東京の玉屋のものが元祖で有名ですが、宮崎にも入り始めていました。
当社では大福祭というイベントを昭和63年3月14、15、16日に開催、いちご、栗、チーズなど単品で20種類の大福を並べたのです。当時はホワイトデイも定番がなかったので、結構売れました。
この単品を合わせたのがなんじゃこりゃ大福です。
ネーミングがユニークですね。
友人(上園君)に試食させたところ、彼が「なんかこら」と叫んだのです。彼は日南市出身で少し宮崎市内の言葉と違ったのでそれを「なんじゃこりゃ」としてネーミングしました。
昭和63年にこの大福祭りをおこない、店頭で講釈をしながら売る毎日でした。
クール宅急便が平成7年にはじまりさらにコレクト(代引き)が始まるようになってなんじゃこりゃ大福は販路が全国に広がることになります。
その後の展開は
昭和63年に売上を伸ばしましょうということでお祭りをやりました、これは既存店の売り上げを伸ばすためでした。翌年には工場の設備を整備します。しかし、工場をリニューアルすれば費用を売上で賄わないといけません。売上を増やすためには店舗を増やすしかなかったのです。平成5年に宮崎駅内に出店、平成7年に浮之城店を出しましたが、ここで工場が限界になりました。そこで平成8年に日ノ出町に工場と併設で店舗を開設。翌年には赤江に店舗を出しました。
工場に設備投資すれば売上を増やすしかない、ということで拡大しているように見えるが実情はたいへんでした。
最近の出店は大坪町ですか?
そうです。大手のモールなど巨大マーケットが出てくると中心の商店街はほんとうにだめになります。宮崎のモールも3年たち、いよいよ倒産する店も出てきています。これは昔、南部にショッピングセンターができた時にも同様の動きはあったのです。
宮崎はマーケットが分散傾向にあるので、出店もそれを意識しています。
従業員は何名ですか
正社員が62名で、パートさんを入れると100名程度ですね。従業員教育は現場でおこなっています。お客さんにお茶をお出しするのですが、これが声を出す訓練にもなります。電話対応ができるようになれば一人前ですね。
コンピュータやインターネットとの出会いは
最初に給与計算で金種表の作成で使いました。エプソンのHC20という電卓のようなコンピュータを買いました。マイクロカセットテープにプログラムやデータを入れたのが懐かしいですね。その後、PIPSというすばらしツールソフトが出て利用しました。240万円のセットでした。
結局、マッキントッシュになり、以来マックを使っています。
ファイルメーカー(データーベースソフト)というすぐれものがあり、これを全面的に使用しています。
インターネットは友人のデザイナーがいち早く提案してくれました。その時に作成してもらったページを今でも使用しています。昔は通信回線が遅くそれに耐えうるページでないといけなかったので、軽いページにできあがっています。ですから携帯電話でも十分見えるんですよ。
ネット通販はいかがですか?
ネットでは年間1500万円ほど売れています。
今後の計画としてはいかがですか
今後も、年2回の特別招待会を実施したり、夏ギフト・冬ギフトのDMを出させていただいたりして、お客様に年に3回はお店に足を運んでもらうような工夫を続けていきたいと思います。本日はどうもありがとうございました。
企業情報
お菓子の日高 本店
宮崎県宮崎市橘通西2丁目7-25
フリーダイヤル 0120-86-5300
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TEL 0985-25-5300/FAX 0985-25-5302
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