航宙日誌
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がんばれ宮崎

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This is the archive for July 2007

東芝ではOA機器事業部パソコン営業部に配属されました。とはいえ、1ヶ月間は配属後の研修がおこなわれました。
ローラー研修です。ローラーといってもいろいろなやり方があるのですが、この時には、地図をわたされ、その地域の会社をすべて回れというものでした。最初は多摩地区の東芝の代理店のお手伝いで展示会の案内を持って回るというものです。
今でも忘れもしません、最初の飛び込み先は都内のH市のホームセンターでした。カウンタにお客さんがいたので、ご主人は忙しそう、とりあえず客のように商品をながめていたのですが、お客さんが帰ったところでカウンタに向かいます。
私:あ、すみません
ご主人:はい、いらっしゃいませ、なにか(満面の笑みで)
私:東芝の方から来たのですが、展示会の案内で周っておりまして、、、
ご主人:あ、セールス?いい、いい、忙しいから帰ってくれる
ご主人の顔からスっと笑顔は消えました。
私は気が動転してそれ以上なんて言っていいかわかりません。そのまま、店外に出ましたが、もうだめです。プライドも気づけられました。今から思えばプライドを持っているといえないような状況だったのでしょうが、国立大学出て大手企業に入ったという自負があったのだと思います。ちやほやされない状況が頭をガツンとなぐられたような気分にさせてくれたのだと思います。
次の訪問ができない、これがローラー時に陥りやすいシンドロームです。
しかし、訪問件数は70件以上必要です。
1週間後はローラーの面白み、こつがわかってきました。

東芝に入社が決まり、3月の後半に寮がある横浜へ。
横浜市磯子。ここに東芝の独身寮のひとつがあります。
2人部屋。いまさら、という感じと、地方から出てきた同士このほうがいいかな、という気持ちもありました。
寮には2年近くいましたが、それなりに楽しい日々でした。
入社式前後に川崎で研修。実はこの就職をめぐって悩んでいました。もともと人見知りする、好き嫌いが激しいというところがあって、これで大企業での事務職がつとまるだろうかという不安です。ある先輩に言われました。「とにかく友達をつくれ」。自分なりに考えて、この同期入社の連中と友達になろう、100人の親しい友達を研修期間内、目標は1ヶ月間で作ろうとしました。研修中、隣り合わせた人間に、話しかけ、帰りに飲みにさそう。砂子通りの村さ来や養老の瀧に毎晩。夜、布団の中で同期名簿(写真入)の欄に◎、○、△をつけていったのです。◎は会えば声をかけあうような仲、○はその手前、△は知っているだけという具合です。
結果、◎は1ヶ月間で50人くらいでした。ちょっと残念でしたが、その頃には友人の友人からも声がかかりあいかわらず夕方は砂子通りでした。
2ヵ月後◎は200人を超えました。
これを通じて友人が増えたのはもちろんでしたが、自分の性格が大きく変わってきたのがわかりました。明るく陽気で面倒見のよい自分がそこにいたのです。この変化は自分でも驚きましたが、その後の会社生活には大きくプラスになりました。

当初マスコミに入ろうと思っていました。あるいは文章で食べることも考えていましたので広告代理店というのも選択肢に考えていました。
とはいえ、名古屋大学の文学部というのはまったくもてない学部で、ほとんどが教員になるようなところでしたので、就職するというのは落ちこぼれ的な目で見られました。
ミツカンとか味の素ゼネラルフーズ(AGF)といったところも会社訪問しましたが、AGFの面接官には「君みたいな線が細い人はウチは無理だよ」と言われ、ショックを受けました。今の自分からは自分でも想像がつきません。
名古屋テレビを受け、最終面接まで行ったのですが、その面接日が東芝の内定通知日でした。結局東芝に入ることになります。
東芝にはわたしが留年したこともあり、1年先に同級生が入っていて、リクルータで帰ってきたわけです。員数あわせでいったのが、当時西川さんという課長が東芝の中部支社にいて、とても気があった覚えがあります。
また、実家の賃貸マンションに関西テレビからテレビ宮崎に出向していた(と思う)中村さんという方がいて、両親が相談したようですが、テレビよりも東芝のほうがよいでしょうとアドバイスいただいたことも東芝にした理由です。

吉川さんというおばあさんが使っていない自分の家を改造して下宿屋をスタート、その1期生になりました。名古屋大学の学生だけということで奇しくも同級生が8名、一つ屋根の下に暮らすことに。
共同で風呂も炊事場も洗濯機もあり、学生としては快適な生活です。
下宿のメンバーもある意味一生のつきあいとなる人たちとなりました。
宴会をやったりツーリングをやったり、合コンをやったり。アルバイトも一緒にやるケースが多かったですね。
途中からほとんど自炊していました。最初、名古屋の味が体に合わなかったのです。宮崎は煮干系の出汁。名古屋はカツオのしっかりとした出汁。しかも赤味噌。大学の食堂の薄い味噌汁がなんとか食べられるレベルでした。
それでも卒業する頃にはしっかりと名古屋の味付けに慣れ、宮崎の味は物足りなくなってきていましたが。

名古屋はわたしにもわたしの家族にも縁がなかった。
父親の弟が蒲郡という名古屋から電車で1時間程度のところにいたのと、母親のいとこが春日井市にいた。
寮に入ることになったが、寮はやめとけというアドバイスが誰かからあった。思想的な面でめんどうくさいぞ、ということだった。その先入観があったからか、入寮してみると、雰囲気が変だった。自分の部屋にいつも誰かが入って勝手にテレビを見ている(テレビを持ち込んでいるのは少なかった)。
やたら人の領域に入り込んでくる。二人一部屋だが、いつも4,5人部屋に来るのだ。同室の先輩が人気者だったのかもしれないが。
入学式の前にオリエンテーションが大学であるのだが、勧誘も多い。一番多いのはクラブ活動。その次に多かったのが宗教、思想からみ。田舎者のためか仏教系のグループにかかわってしまった。その連中はどちらかというと右系で、寮を取り仕切っている連中は左系だったため、寮はいないほうがいい、たいへんな目にあうぞ、といわれた。これがとどめで寮にいたくなくなった。同時に風邪をひいてしまい、高熱が。
結局、蒲郡の叔父のところに転がり込むことに。
1ヵ月後正式に退寮し、母方のいとこのご主人の実家の近くの下宿にお世話になることなった。

昭和47年4月、大宮中学に入学。ここは後年柔道の井上康生氏の母校となる。
やんちゃな(少々ツッパリ気味)の3年間、中学3年から空手を習い始めた。
高校は県立宮崎大宮高校。ここは旧制宮崎中学で伝統のある学校。
バンカラな気風が残る学校であると同時に進学校。
地理研究部という文化部に入部。高校野球の応援、体育祭、学園祭とあっという間の3年間。空手も怪我をしたため、受験もあるからと親に止めさせられた。受験はたいへんだったけれども、なんとか名古屋大学に合格できた。

大学の選択は、志望する学部が文学部ということで、京都大学を狙っていた。中国文学に興味があり、京都にはその点で魅力のある学校であった。
高校時代、とくに3年生の時には文学少年気取りで、詩や小説を書いていた。書物も純文学を中心に読み、いろいろな人の文章読本を読み漁った。
東大も京都も受験科目が国語、英語、数学の3教科に社会2科目、理科2科目と理科と社会1科目ずつ余計に試験があった。学校では1科目ずつしか選択できないので、自習することになる。これはけっこうつらい受験勉強で、来年からは共通一次試験ということで、浪人は不利との考え方もあり、当時のランク付けで一ランク落とすことになったが、大阪大学、九州大学は地理の科目が合わず、東北大学が名古屋大学ということになった。仙台は遠いと父母に反対され、名古屋ということに。
名古屋についてはまったく知識がなかったし、想像もできなかったが、単純にここしかないかな、で受験。
わたしは国語が異常に得意で、偏差値が理論上はありえないらしいが140点とかあった。逆に数学が苦手。ところが名古屋大学は数学が難しいことで有名だったらしい。でもなんとか合格した。

幼稚園を卒園した頃、両親は市営住宅の抽選にあたり、そこに家族全員そろうことになりました。場所は延岡市大貫町。市営住宅が多く、花の名前がついていました。私の家族はスミレ団地に住みました。周りは住宅造成などが盛んで、また市営球場や運動場なども整備されているところでした。
南方小学校に入学、この学校はクラスが松、竹という呼称を使っていました。松と竹のあとは覚えていませんが4,5クラスあったと記憶しています。わたしは松組です。
プールはなく、夏は近くの五ヶ瀬川に泳ぎに行きます。今、Googleマップを見てみると、通学は直線で1.5kmくらい。子供の足では40分くらいかかっていたのではないでしょうか。
2年の終わりに父親が宮崎市農協に転職することになり、引っ越すことになりました。
昭和43年の3月、宮崎市の大宮小学校に転入します。
自宅は祖父母と同居ですが、半年後に祖父母はすぐ前の場所に新居を建築して移りました。宮崎神宮や宮崎大学の農学部が近くにあり、畑も多い場所です。祖父は貸家を建てるようになり、実家の前に大きな貸家を2軒建て、1軒には出光石油の社長?(宮崎の販売会社の社長だと思われる)が住んでいて、たくさんのタンクローリーがありました。
小学校のまわりには田んぼがひろがり、季節ごとの風景や生物と親しんでいました。蛙の卵、レンゲ、稲穂、とんぼ、カブトムシ。
友達もたくさんできました。
そのまま中学へ進学です。

1959年(昭和34年)11月27日 宮崎県宮崎市生まれです。
実家は宮崎神宮の西側にあり農家で野菜、米そして花を生産していました。
父親は三股町(都城市の隣)の出身で水居の家に養子で入ったあと一人娘であった母親と結婚したようです。
父親は県北の延岡市の東延岡農協に就職。農協の事務所の宿直用の宿舎が新婚家庭だったようです。トイレが多人数用で小便器が6つか8つありました。農協の事務所のトイレとして使っていたと思われます。母親にしてみると新婚家庭の中に他人が入ってくるのは微妙な感じだったかもしれません。
弟が2人います。一番下が生まれたときに口減らし的な意味もあって、宮崎市の祖父母に預けられました。4歳から6歳までを祖父母と3人で暮らしました。
祖父母は農業でしたので、幼稚園くらいからは一人遊びとか近所のよしろうくんと遊んでいました。


出身学校を聞かれるときに、専攻を言うと一様にびっくりされます。文学部中国哲学科。いわゆる漢文読みというやつです。漢文といっても幅が広いのですが、教えてもらったというか教材にしたのは、史記、陽明学、礼記、論語などで、特に礼記はおもしろかったですね。礼記というのは四書五経のひとつで礼儀の書です。ごみが落ちていて人前で拾う場合にはたもとでごみとごみを拾う行為を隠しなさい、そうすれば他人が不快な思いをしないというものです。他にも授業の場合、先に来た人から前の席につめなさい、なぜなら、後からおくれて入ってきた人が前の席に着くと、講義の雰囲気が乱れるから、とか今でも為になる話は多く収容されています。こういうのもあります。兄嫁がおぼれていて助けを求めていたら、必ず棒切れを持ってそれで助けなさいと。なぜなら、手を直接触れ合うことによりただならぬ関係になる可能性があるということなのです。
学部に進み、中国哲学研究室に入りますが、ここは学年の定員5名に対し教授1名、助教授1名、助手1名、講師2名というぜいたくなところでした。しかもわたしの代は2名だけ。もうひとりが休むと1対1の講義となります。先生のひとりが京大出身の加地先生でしたが、わたしは加地先生の授業が面白くて中国哲学にのめりこみました。それでそのまま大学院に行こうと思いましたが、いかんせん能力的なものがついてこない。独断的に留年し、勉強して進学するつもりでした。
ところが、留年した途端、加地先生が大阪大学に転勤されることになったのです。また、加地先生もこの世界は狭いので食っていけるようになるにはたいへんだよと諭されました。実際、加地先生も教授になられたのは50代後半です。
そこで就職という線も考えるようになったのです。

学生時代にアルバイトを経験しました。オーソドックスなのは家庭教師。大学の厚生課に行き、掲示板においしい口はないか探します。一番人気は女子。というのも男子の場合はどうしようもないから助けてというタイプが多いという定評があったのです。でもなかなか女子の場合は口がありません。少ないのと、女子学生指定が多い。また、あったとしても面接で汚いTシャツなんか着ていると落とされるというような状況でした。
男子中学生を面倒見たことがありますが、まあ、やる気の無い子でした。やる気を引き出さねばならないのでしょうが自分にそんな才能があるわけもなく、2時間つぶしているという感覚がありました。相手の親御さんにも申し訳なく、夏休みに同じ下宿の人に代役をお願いしたまま、そのままやめました。
それから、アルバイトは時間の経過を待つような仕事は避けるようにしました。
記憶に残っているのはボイラーの掃除、市バスの調査、そして氷の配達です。
ボイラーの掃除は夏季に工場のボイラーを掃除し、点検するというものでした。なにせ暑い。停まっていても50度以上のボイラーの中に入って掃除をします。しかも燃えカスに水が反応すると酸になることもありました。しかし、実働2時間(これ以上体力的に無理)で1万円くらいくれたのでよいバイトだったのですが、ひと夏でギブアップしました。
市バスの調査は調査会社が請け負った市バスの乗降客調査で二人一組になり、乗り口でバス停をマークした紙をわたし、降り口で回収するというもの。これも割がよいバイトでしたが、ワンマンバスになり、退屈な運転手には格好の話し相手になっていたようで回転場の待機では話が盛り上がりました。
氷の配達は、名東製氷という製氷メーカーで配達を担当しました。主に飲食店に配達していきます。夕方がメインで飲食店の合鍵を預かり、冷蔵庫に入れてくるという仕事です。これは4年間やりましたが、楽しいバイトでした。夜の世界を覗き見れたこと、会社の社員のおじさんたちとの交流があったこと、バイト同士で遊んだことなどいい思い出があります。
氷は1貫という単位です。1貫は3.75kgで、1枚(4貫)で15kg、1本(60貫)という重さです。最大で8枚から10枚を一度に持ちます。つまり
おかげで体は逆三角形の仮面ライダー張りの筋肉マンでした。今は見る影もありません。