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This is the archive for March 2011
今はまだ、救助、被災地支援に忙殺されている現場だが、どう復興させていくかという大きなテーマは多くの人の頭にあるはずだ。
みんなに夢を、希望をもたらせるのはすばらしい復興プランであり、推進体制である。
先日、参議院TVで参議院の公聴会を見ていたが、菊池英博氏(消費税はゼロにできるという著書のある、経済学者)とともに出席していた、公述人の藤井聡京都大学教授の提案は説得力があり、とても頼もしいものだった。
概要としては、以下のとおりだ。
1.東日本の復興について
・東日本ふるさと再生機構を設置し、被災者を雇用する復興支援事業をおこなう
・全国規模で若年層の雇用を被災地支援にておこなう
・震災復興国債の発行による財源確保
・子供手当などの廃止による財源確保
そのためにはTPPへの参加はやめるべき、消費税増税もやってはならないと説いている。
2.日本列島強靭化
・日本列島全体を強靭化するための施策を10年計画で推進する
・M9クラスの地震を、津波被害を想定した新たな防災指針の設定
・物流、エネルギーインフラの見直し
・エネルギー、食料の自給化
今回の地震では、公共投資を絞り過ぎた結果、防災面での弱体化が目立ったという。
詳細はこちら。
http://bit.ly/dZ8f97
いずれにしろ、早期に政府は光明を掲げて見せてほしい。
東北の惨状をテレビで見ながら、何ができるのか、何をすべきなのかをずっと考えている。もちろん、自分の頭の蠅も追えないような状況で何ができるとも自問している。
しかし、なにかをやらなければ。
現在の当面の問題は不明者の捜索である。そして被災者、避難した人々のケアである。
でもいずれ次の復興という大きなテーマをみんなで考えないといけない。
いろいろなアイデアを集め、工夫し、この難局を乗り切る。日本人には絶対できると思う。
昨年の口蹄疫の際に、宮崎県民はひとつになった感覚を持った。(と思い込んでいる)
日本人は東北の震災をきっかけに短期間ですばらしい日本を再興させる。そんな底力を持っているはずだ。
財源をどうするとかいろいろと問題は大きいだろうが、国を挙げて工夫し努力する。それしかないと思う。
自分も自問し続けようと思う。
東京は広尾での、午前中の打ち合わせが終わり、赤坂、溜池交差点近くでの次の打ち合わせに向かった。この溜池(銀座線溜池山王駅)は自分自身、勤務していた会社をやめ、1990年に東京駒込で起業し、そして次に移ったのがこの溜池だった。
あるビルのオーナーに、家賃等を聞いたら、「高いと思われるでしょうけれど、山師の看板といって、多少分不相応の所に背伸びした方が会社は伸びますよ」と言われ、無理してそこに入居したのを覚えている。それでも敷金は払えなかったので、分割にしてもらった。
その大家さんは老夫婦で、骨董品店を営まれていた。森ビルがアークヒルズを立てるときに換地で今の外堀通りに面した一等地をもらったのだそうだ。そこに9階建てのビルを建てられていた。
この大家さん夫婦とはなぜか息が合い、宮崎はもちろん、ハワイまで一緒に行ったという思い出がある。
久しぶりに、突然立ち寄った見たら、なんとご主人は3年前に亡くなっていた。突然悪くなりそのまま亡くなられたのだそうだ。残念だ。豊富な経験からいろいろなアドバイスを、ことあるたびにいただいていた。
ご冥福をお祈りする。
その後、その近くのペンシルビルの5階で打ち合わせ。5階建てのビルの5階で、およそ10坪ほど。エレベータは無く、外階段で上がる。打ち合わせの最中に、揺れが始まった。最初はゆっくりだったが、次第に横揺れが激しくなり、パソコンやロッカーなどが倒れる。細いペンシルビルは身体をひねるように、回転しているかのようにゆれはじめた。鉄骨の音なのか、ギーギーと不気味な音。これはかなりの地震と認識させられる。数分間の揺れはとても長く感じられた。揺れは止まっていないがこのビルと心中しそうな予感もしだしたので、意を決して外に出ることに。揺れる外階段を降りながら、この脱出はすべきではないことだったのではなどと考えていた。外の道路には多くの人が立って上を見ている。近くにあるJTのビルはゆらりゆらりと揺れている。電線もギシギシいいながら電柱と揺れている。
地面が揺れているのがわかるというのは不思議な体験だ。かなりおさまってきたので、再度ビルに荷物をとりに上る。そして荷物を持って、駅の方に歩いた。そこで、お客さんとは別れた。しかしどうすればよいのか。自宅に帰るべきなのか、羽田に向かうべきなのか。歩きながら見ると、根元で大きな日々が入ったビルやガラスが割れ落ちているビルなど被害状況が見えてくる。特許庁の敷地に入り、タクシーをとめようとしたが、少しだけタイミングを逸した。(結局この日はタクシーに乗れなかった)
特許庁の敷地からさきほどいたエリアを見ると、ガソリンスタンドがある。そこの天井にぶら下がる大きなメーターがぶらりぶらりと揺れている。再び大きな地震だ。余震というよりも再地震である。
ここではタクシーがつかまらないので、国会議事堂の方に。ここでも多くの人が茫然とたむろっていた。
首相官邸には何度も黒塗りの車が入っていく。政府も対応が大変なのだろう。この時点では、自分は震源地が東北ということはわかっていない。ツイッターでお台場の火事という記述を見たので、東京が震源で東京の一部でひどいことになっているのだろうか、と考えていた。
ここでもタクシーがつかまらないので、そのまま有楽町方面に歩きだす。多くの人が道を歩いている。みんなどこに行くのだろう。(実は、もう自宅に向けて歩いている人が多かったのだ)相当な人の数だ。自分も、自宅に向けて歩くことを考えていた。いったいどれくらいかかるのだろう。地震が起きてから携帯はまったく通じない。ネットへのアクセス、メールもできない。いつもなら携帯かiPhoneで地図を見るのだが、それもできない。公衆電話には長蛇の列ができ、唯一動いていそうなバスに乗るためバス停にも長蛇の列。
新橋駅に行き、コインロッカーを探す。コインロッカーに大物を入れ、身軽になってから歩こうと考えていた。コインロッカーは意外と空いていたが、持っていたビギーバッグが中途半端で大きなボックスにしかはいらない。コインは950円あったので、500円のそのロッカーに入れることは可能だった。必要なものを手下げに入れ替え、本体をロッカーに入れたが、手下げが以外と思い。パソコンはいいか、と再度かばんの中に入れ、鍵を締めた。「あっ、常用薬と家のカギを入れたままだ」持病の高血圧の薬、数日分入っている。しかたなく500円をあきらめ再度取り出す。しかし再度入れるコインはない。周りで両替ができそうな場所も雰囲気もない。結局はピギーバッグをそのまま転がしていくことにした。
近くに当社の取締役を兼務しているMさんの事務所がある。固定電話をそこで借りようと思い、そこに向かう。新橋から並木通りを北上。バブルの頃の銀座のメインストリート。今はブランドショップが軒を並べている。空車のタクシーが通るという淡い期待は裏切られた。彼の事務所のビルに到着、エレベータはやはり停止中。階段を5階までが上がる。今日は5階が多い。
事務所にはM社長は不在だったが3名残っていた。電話を借りて自宅と家内の勤務先に電話するもつながらない。宮崎にはつながる。宮崎の社員からもメールや着信情報は届いているが返信ができていない。心配をかけているのだろうと思い、宮崎にかけ、無事を知らせると同時に家族への連絡をお願いした。
宮崎の知人友人から連絡が入るが、こちらからかけることもメールも出せない。大都会のインフラ整備、運営の難しさを痛感した。
Mさんが帰ってきた。東京駅にいたらしく、歩いて戻ってきたらしい。このビルもけっして新しくはないので、全員出ようということになり、ビックカメラで自転車を買って帰ろうというアイデアでビックカメラへ。残念ながらビックカメラは臨時閉店。Mさんとしばらく時間をつぶして様子を見ようということで、腹ごしらえも兼ねて有楽町の高速下の店へ。高速道路はおそらくしっかりした建物になっているはずというMさんの理論にしたがった。
お店は平然と営業をしているところが多く、ただしフライヤーなど油を使うものはできないということであった。携帯のバッテリーが少なくなっているが、あいにくコンセントがない。コンセントを貸してくれというとあいにく他のお客さんので埋まっているという。しかたなく持っていたノートパソコンのUSBから取り出し、PCのバッテリーから充電。
相変わらず、電話ができないが、メールが動くようになってきた。宮崎の人間からの電話もかかるようになってきた。電車の情報などもわからないので、そろそろタクシーを探しに行こうと店を出た。
銀座を東に抜け、東銀座、新富町と歩いたが、いたるところで歩く人々の列と、公衆電話の列、コンビニで食料などを買い求める。コンビニは防災上の価値がたくさんあると思われた。食料、飲料水の提供、トイレの提供、広くはないがスペースの提供が可能である。ただ、多くのコンビニは水や食料、そして携帯の予備バッテリーなどはすぐに売り切れていた。このコンビニに情報提供の仕組みがあればよいと思った。デジタルサイネージを配置し、コンビニの内外で各種情報が見れるようにすることはそんなに難しくはないだろう。WiMaxと補助電源と組み合わせればできあがる。非常用の帯域を用意すればよい。コンビニは非常用電源を設置しておけば、冷蔵庫も活きるし、防災情報も活きる。コンビニまでの回線をどうするかは課題ではある。コンビニ同士をネットワーク化しておいて、通常のアップリンクができると同時に、いくつかのコンビニには衛星インターネットを置くという感じだろうか。
結局、タクシーはつかまらない。バブルの頃はMさんとよく銀座をはしごし、帰りのタクシーをこのように探したものだが、レベルが全く違っていた。昭和通りでMさんと別れ、歩くことで覚悟を決めた。
ピギーバッグが余計だった。中にはビジネスの詰まったノートPCなどが入っている。
そのまま、昭和通りを北に向け歩き始めた。前後50cm程度には人がいる状態。横に5,6名で並んで歩く。会社単位の人もいるようだ。ヘルメットをかぶっている人も多い。カップルもけっこういて、話をしながら歩いている。高齢者もけっこういる。
途中、電話を数度入れてみるが、まったくつながらない。自分の携帯が直近のアクセスポイントに入れないのだ。少しメールが使えるようになってきたが、携帯のキャリア会社が違う家内の方には遅延しているのか反応がない。iPhoneはバッテリーが20%を切っているが、そこからメールを送ってみる。「そちらから電話をいれてほしい」と入れた。すると電話が入ってきた。やはりメールは遅延していた。今回のメールはおなじキャリア同士なのですぐに届いたようだ。今、家に向かって歩いている旨伝えた。家族や親戚も全員無事のようだ。30分おきに電話をもらうようにした。
昭和通りの車は大渋滞。タクシーに乗れたとしても相当な時間と料金がかかったと思う。交差点ごとに東西から来る車は昭和通り(南北)に入ろうとする車はせいぜい1,2台しか入れない。クラクションもかなり鳴っていた。そこをオートバイがすり抜けていく。これも危険な状態。
日本橋を通り、岩本町、そして秋葉原。サラリーマン時代、浜松町にあった事務所から荷物を運ぶのにタクシーに乗って昭和通りを秋葉原に行っていた。その時の土地勘が役立っている。秋葉原は若い人が多かった。インターネットカフェなどにも入っていく人を見かける。一緒に歩いてきた人たちの中には秋葉原で友人たちと消えていくのもいた。
御徒町を過ぎると、歩いていない人たちも増えた。昭和通り沿いの飲食店はどこもいっぱいだ。年末やクリスマスシーズンのようににぎわっている。景気がよくてこのような風景ならばいいのだろうが、、、。上野に近付くにつれ街をうろついている人は増えた。上野まで来たが、結局電車の目処が立たず、時間をどう過ごすかというところだろう。
上野駅の東側のペデステリアンデッキが見えた。階段を上がる。荷物があるので階段を上がりたくはないのだが、上野駅の東側は道路も交差点も大きく、地面を横断するとかなりの遠回りになる。デッキは通常より多く人が通るからか、余震のせいか、揺れていた。
再びデッキから地上へ。そのまま北に走る昭和通りから少しそれて線路沿いの細い道を入っていく。ここを通り、根岸(鴬谷)へ抜けた方が近いはず。相変わらず、携帯も使えず、頼りはさきほどコンビニで購入した地図(ただし大きな道路地図)しかない。こういうときは地図を配ってくれるとうれしいと思った。
岩倉高校を抜け、郵便局を抜け、鴬谷方面へ。ここには一大ラブホテル街があるが、にぎわっていた。カップルだけでなく、一般のホテルが満室と聞いていたのでここにも宿泊を求めて人が来ているのだろう。
家内の電話で、都内の小中学校が宿泊用に開放されているとの情報を得たが、この情報はいったいどれぐらいの人が知っているのだろうか。途中、1か所だけ貼り紙を見た。こういうときの情報は貼り紙、ポスター、広報車などが効果的とあらためて思った。
根岸から日暮里に向かう道に入る。角にある豆腐専門で有名な笹の雪は閉店していた。日暮里、西日暮里と歩くにつれ、行軍の列は少しまばらになってきた。そしてついに荒川区の看板が。あと30分くらいだ!歩けたんだな、と思ったとたん、足と腰にしびれが出てきた。やはり50歳を超えるとこうなのか。
途中の公園のトイレで休憩。数分座っただけで全然違う。
だんだんと知っている近所の目印が見え、その横を通っていく。途中の小学校には灯りがつき、人が動いている。非常用の宿泊施設としての準備をしているように見受けられる。
そして、自宅のマンションが見えてきた。
自宅に帰りついたのは22:30くらい。家族がまだ起きていて出迎えてくれた。携帯のメールはやはり遅延していた。風呂に浸かり、足と腰に湿布を貼る。数日前に五十肩と思っていたところはまったく違和感がない。足がすべてを吸収してくれたのだろうか。
食欲もなく、緑茶をおいしくいただいた。
テレビの中では歩いている時の想像を絶する世界が広がっていた。特に津波がこんなに被害を出していたとは。twitterにあらためてアクセス。いろいろな情報も飛び交っている。
自分は自宅まで歩いて帰ったことはつらいとは思わなかったが、地震のすごさ、都市のもろさを感じながら歩いていた。しかし、東北地方の惨状は、自分の労苦はなんでもない、蚊が刺したようなものとしっかりと認識させてくれた。
余震は続く。数分ごとに緊急通報がテレビで鳴り、震度2か3くらいの地震がやってくる。眠いが眠る気にならない。ニュースは次々と新しい情報(悪いものばかり)を提供してくれる。
それでも夜中になり、横になることにした。余震がゆりかごに、なんてうそぶいてみたが、やはり寝付かれなかった。
翌朝、遅めの朝食。あれだけ大きな地震がありながら、家族そろってあたたかいものを食せるのは幸せなことだ。電話やメールも昨夜よりはつながりやすくなっている。
準備をして、羽田に向かう。
家の近くの電車は止まっていた。都バスは動いていたので、それに乗ることに。バス停には数人が待ちくたびれていた。私の携帯ではTOBUS.JPで検索し、あと2分でバスが来ることになっている。それを待っている人に言うが、あまり信用していないようだ。実際そのとおりバスは来た。しかしぎゅうぎゅう詰め。なんとか載せてもらい、西日暮里で降りた。山手線は動き始めたようなので、それに乗る。しかし、各駅で停車して待ち時間もあった。飛行機までの時間はかなり余裕があったので問題ないが、ついに鴬谷駅で京浜東北線に乗り換えた。こちらもぎゅうぎゅう詰め。しかし、幸いなことに座れた。昨日の行軍は自分だけではないにしても、大きな荷物をもって立っているのはつらかったので、めぐりあわせにうれしかった。
浜松町で乗り換え、モノレールへ。モノレールは混んでいたが、座ることはできた。羽田空港に到着。空港はいつもより人が多いように思う。昨日出発できなかった人がたくさんいるのだろう。実際、ほとんどの便が満席。仙台空港などの便はもちろん欠航。
今回は後部座席を取っていた。2列3列2列のまん中3列の通路側。隣には母娘連れが。目があったのであいさつし、大変でしたよね、と声をかける。彼女たちは娘さんの新入学の関係で寮の申し込みに日帰りで来ていたのだそうだ。昨夜は都庁とホテルのロビーで過ごしたという。朝から移動し、キャンセル待ちでやっと乗れたという。
飛行機が着陸30分前になり、けっこうゆれはじめた。左右に揺れ、イスが上下する感じ。これは昨日の地震とそっくりである。これまでなんともなかったのだが、今回はトラウマになりそうな感覚。
宮崎空港に着陸、空港ビルに入った時、なぜか、とても感激した。そのまま帰宅し、ひたすら眠った。揺れない大地、当たり前だが、それにしばし安心して。
東京に所用で来たが、打ち合わせ等のたびに、宮崎は大変ですね、と声をかけていただく。
確かに、昨年の口蹄疫に始まり、今年に入っては鳥インフルエンザ、そして新燃岳の噴火と大災害が続いている。
鳥インフルエンザの前に、韓国の口蹄疫は宮崎でも大きな問題であり、特に畜産農家は緊張を続けていた。
宮崎空港はずっと消毒マットを配備しているし、畜舎の入り口には消毒用の石灰が撒かれていた。
鳥インフルエンザが流行しだして、消毒ポイントもあちこちに設置され、多くの人が日夜対応をしていた。
1月27日以後、数回の爆発的な噴火があり、火砕流や土石流といった大きな被害はない。しかし、大規模な降灰という宮崎の人がこれまで経験していなかった被害は広範囲に広がっている。
風向きのせいで、都城市、高原町、日南市、串間市が当初被害を受けていたが、さらに小林市や宮崎市、西都市、綾町なども被害を受け始めている。
降灰は人々の日常生活に大きな影響を及ぼしている。洗濯物が干せない、目やのどが痛いといった生活の基本的な面はもちろん、屋根や庭に積もった灰の始末に困り、特に屋根の灰は家屋や小屋の倒壊といった危険性もはらんでいる。
屋根の灰を降ろそうとして屋根から落下、大けがをする人も続出。太陽と緑の国のキャッチフレーズどおり、豊富な日照を利用したソーラーパネルも稼働が悪くなったり、損傷したりと散々である。
そして、口蹄疫以上に、農業に大きな影を落としている。露地ものの野菜はほとんどが灰をかぶっている。この灰は酸性で、けっして普通の野菜等には歓迎されるものではないという。仮に、今生育している野菜をあきらめたとしても、土壌自体が酸性になれば、土壌改善をしないといけないそうだ。
この火山灰は遮光性も強いらしく、ビニールハウスが暗くなり日照の問題が出てくるらしい。キュウリ農家には既に大きく影響が出ているという。4月から出荷するマンゴーも被害を受ける可能性が大である。
先日、日南市のミカン農家に行ったが、ビニールハウスの空気取り入れ口から灰が入ってきて、ミカンに灰が付着したそうだ。
この火山灰は酸性が強いだけでなく、とがっているらしい。このとがった部分が野菜や果樹などの葉を傷つけ、そこから菌が入って腐食していくこともあるらしい。
宮崎市内の八百屋で降灰被害を受けた野菜が売られていることがある。外側の葉を剥いてしまい二周りも小さくなった白菜が30円とかで売られている。
高原町、都城市は土石流の心配もあって、避難勧告がいつ出されるかわからない地域がある。自治体職員は二十四時間体制であり、地元の建設業も降灰処理の作業に忙殺されている。父兄が小学校の校庭の灰を取り除いたり、ボランティアが高齢者の住宅の屋根の灰を落としたりといろいろな人が動いている。
降灰については、桜島を持つ鹿児島からロードスイーパーが貸し出され、遠くは北海道から国交省のロードスイーパーが貸し出されて活躍している。
おなじ自然災害でも、台風は数日で通り過ぎてしまう。この火山噴火というものは予測が立たない。いつまで続くのかという不安は人々を本当に暗くしてしまう。
風評被害とは言い難い面もあるが、霧島地区の宮崎県関係の宿泊施設のキャンセルは既に一万泊以上になっている。宮崎の農産物も同じような目で見られるのか。風評は立たなくとも、出荷総量は確実に減少するだろう。せっかく作った販路をおかしくする可能性は高い。
結局、われわれはどうすればよいのだろう。私の業種は直接的な被害を受けることはない。間接的には農業関係やホテル関係のお客さまも多いので、影響を受けるであろうが。口蹄疫の際は、われわれ素人がなにかできるというものではなかった。そこで、われわれでできる募金の仕組みを考え、実行した。IT関連の会社5社が協力して四百万円を募金できた。
今の降灰被害地はこれから噴火がないとしても、元に戻るのに、相当な人力と資金が必要である。やはり募金だと思う。
もちろん、県の募金活動を紹介し、募金をしてもらうように働きかけることはできる。でも、なにか、もっと動機をつけて募金を促すものはないかと考えている。
口蹄疫の時のようにバッジを販売するのもよいかもしれないが、なにか、宮崎らしい募金活動はできないだろうか。
口蹄疫の時にいろいろな企画やイベントが実行され、たくさんの浄財が集まった。今回は直接的な、人や動物の生死が関わっていないために、どうしてもイベントはやりにくさを感じる。
いったいなにがよいだろうか。数日の間に考えて実行したいと思っている。
やはり募金を。
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