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1995年 第39回日本表現派展・大賞 「 富士シンフォニー 」 4曲 屏風絵 1610×3360
2005年 第49回 日本表現派展 「 鬼降る森 」 4曲 屏風絵 1720×3420
6月7日、東京駅よりおよそ一時間、中央線立川駅から青梅線に入り、さらに1時間東京の奥座敷奥多摩へ。先生のアトリエのある「鳩ノ巣」へ向かいます。
窓の外は連なる緑の深い山、そして多摩川の清流が流れています。
乗客もほとんどが山登りのいでたちです。
鳩ノ巣に着きました。とても小さなかわいらしい駅舎です。こんな小さな駅にもSuicaの自動改札があったのには驚きました(笑)。
そこから歩いて7分ほどのところに先生のアトリエはあります。美しい渓流を眼下に眺めながら、森林浴をしながらの楽しい道のりでした。
ここが1991年に完成した五風十雨庵です。落ち着いた中にも芸術家らしい細やかなこだわりを感じさせる庵です。
とても静かな環境で、観音様に見守られながら向原先生は制作活動にいそしまれています。
奥多摩数馬峡暮色 P50
吉田: 奥多摩に来られたきっかけは?
向原: 主人が幼少の頃、鎌倉から遠足でこの奥多摩鳩の巣に来たというとても良い思い出があり、親子4人で奥多摩湖を見に訪れました。その時季節は冬。湖面が冬の厳しさにさらされ、山々は雪におおわれており、南国育ちの私には始めての「風花」を目にして、その美しさに心を奪われてしまいました。自然はなんと美しいんだということにあらためて気づかされ、励まされ、人生の喜びを与えてもらった奥多摩に住みたいと、その時思ったのです。
奥多摩鳩の巣暮色 F80
吉田: いつごろから絵を始められたんですか?
向原: 3歳の頃から鉛筆と紙、そして母がむすんでくれたおむすびを持ち、自然の中で絵を描いていました。中学校から美術部で、大宮高校に進学しました。大宮高校でも美術部で学びながら、茶道、華道を本格的にお稽古に励みました。
吉田:水墨画はいつから?
向原:小学校6年生の時書道を習いに行き、その時初めて水で墨をすって、紙に何かを書くという体験をしました。そのうちだんだん字を書くだけでは飽き足らなくなって、墨でもっと自由に遊びたいという気持ちになってきました。当時習っていたのは油絵で、墨絵は家で描いて遊んでいた感じです。
書道教室で「筆を立てて字を書く」という筆法を習っていたので私は自然と筆を立ててそのまま絵を描いていたんです。そしてその後美術評論家の吉村貞司先生と出会うことになります。吉村先生は、筆の芸術が精神であり、何よりも筆を垂直に立てて描くことは、面と戦い、戦いによって自己の世界を樹立するという、新しい墨の可能性を唱えられておりました。その吉村先生に、独自の筆法を見出され、美意識、創造性、精神性をいかに高め拡がりのある追求を、と、薫陶伝授いただき、墨絵の世界に入ったのです。
私もいよいよ美術界へデビューという時、師は急逝、天界の人となられました。
吉田: えーっ!そんなことって・・・
向原: それはショックでしたよ。これからというときに恩師を失ってしまって・・・
だけど先生が公募展の「日本表現派」に「君の発表する場はここだよ、ここは良い作品であれば大きい作品をとってくれる公募展だから」という導きに従って、出展をしました。今から20年間前の話ですけど、今ではそこの同人にもさせてもらってます。
2000年 鎌倉覚園寺客殿外襖絵
「 高野山奥の院 御生身供 」
「 高野山奥の院 御生身供 」
先ほど、水墨画は精神と深いかかわりがあるとおっしゃっていましたよね。
向原:水墨画というのは、下絵無しでいきなり白い紙に線で描いていくわけですから「しまった!」と思っても消せないんです。すると緊張感や集中力というものが必要となります。紙に向かった時が戦いだから、戦える自分を鍛えていくっていうか、ある程度人生経験や心の精進に努め、感性を育んで行くことがイコール、墨絵を描くということにつながってるんじゃないかと思います。
吉田:苦労をされたことが作品にはプラスになっているんですね。
向原:苦労っていうのは感じ方に個人差がありますから、私にとってはこれまで大きな山を乗り越えて来たのかなあと思えても、まだ次に大きな山がそびえ立っていて、常に心の鍛錬、精進のくりかえしです。苦しみが無くなった時はすでに降りだと教わりました。
吉田:先生のように名を成された方でもまだ登りつめてない?
向原:有名になるならないはどうでもよいのです。太古の昔より海より生まれ出でた全ての生命一つ一つである、森や川の自然が慈しみ育ててくれた人間がどうあるべきか、何をしなければならないか、辿って行くと小さな小さな自分でしかありません。雲に隠れた頂上は、天界まで続いているのでしょうね。
吉田:ところで先生は日本酒にも造詣が深く、エッセイなども書いていらっしゃいますが、日本酒との出会いは?
向原:私の父は、余り外食を好まない人だったんです。母はせっせと父のためにお料理をして、私はお運びの役目でした。それで少しずつ父のお相伴をしているうちにおぼえたのが原点です。絵の制作中はお酒は断ちますが、作品が出来上がったときは一人で祝い酒をするんです。それは、世界で一番おいしいお酒となりますよ。
2000年 鎌倉覚園寺客殿内襖絵
「 善財童子 求道の旅 」
「 善財童子 求道の旅 」
向原:実は、宮崎にアトリエを作らないかというお話もあったんです。そうなったらどんなに素敵かと思うこともあります。今はこの奥多摩の地に、麓のアトリエ、山のアトリエと、二つの画室にご縁いただいておりますので、当分は奥多摩の森から全国に。
ただ私にとってふるさとは、私を育んでくれた母のような慈愛に満ちた存在で、いつでもおいでおいでと手招きをしてくれています。だから私は安心して、毎月毎月、せっせと宮崎に帰っているのです。
「 善財童子 求道の旅 」部分
吉田:それが「玄の会」ですね。
向原:今は奥多摩は私の第2のふるさとと思ってますが、ここの生活がなんとか安定した時に私はすぐ故郷宮崎のことを思って自分がお勉強してきたことを宮崎のご縁のある方たちにお伝えすることができたらと思って、14年前に宮崎玄の会を発足致しました。当初は墨絵を教える人が少なかったので大勢ご入会下さいました。ひと月に一度、講座を開いています。ひと月に一度というと、やはり己に厳しく、次の講座までにこれを学ぼうと自分から発奮しないとなかなかステップアップにはつながらないんです。でもそんな中で何人かの方は公募展に入選して活躍していらっしゃいますから、そういう方に私も励まされております。
1999年 第43回日本表現派展 「 南風 」
4曲 屏風絵 1652×3352
4曲 屏風絵 1652×3352
そして、ここ奥多摩ではふるさと宮崎のすばらしさをお伝えしたり、宮崎を離れて東京にいる方たちをつなぐパイプ役をつとめていきたいと思っております。
吉田:これからも宮崎をよろしくお願いします。今日はありがとうございました。
向原:こちらこそありがとうございました。
その後、先生が私たちのために用意してくださったお昼ご飯をごちそうになりました。
鶏のからあげやたまごやき、塩鮭、そして先生が漬けられたおつけもの。おふくろの味?先生、本当においしかったです。ありがとうございました!
2006年 第50回日本表現派展 「 ふたかみ 」 1757×3472