秋山先生が綾に移り住むまで
吉田: ご出身はどちらですか?
秋山: 父が教員をしていて、赴任先の沖縄で生まれました。3歳からは父の故郷の久留米に暮らしましたが、11歳からは宮崎です。
吉田: 宮崎にはどうして来られたのですか?
秋山: 戦争中、沖縄が陸上戦になるというので、非戦闘員(女性や子ども、高齢者など)が疎開で九州や台湾などに移り住んだ時代がありました。その1地域が宮崎市の波島です。この地域に何か産業を興そうと、琉球織物の技術を学んだ父が久留米から呼ばれて来たんです。当時は本場の沖縄では戦火により琉球織物が作れない状態でしたので、この波島で作った製品が全国に良く売れました。
吉田: こちらの綾町に工房を移されたのはどうして?
秋山: 昭和40年に父から受け継いだ時、独自の工房を作るため、場所を探しました。私たちがやっているのが繊維で糸関係だから、糸へんのついている「綾」を選んだんです。それまでは「琉球紬」として販売していましたが、やはり宮崎で作るのだから自分のブランドにしたいし宮崎の名前も売りたい。それで「綾の手紬」としました。当時の綾は今のような芸術の町のイメージからはほど遠かったんですよ。当時の綾は本当に田舎で、今の大淀川学習館までしか舗装がなくてね。
吉田: 郷田前町長が「夜逃げの町」って著書の中で書かれてますよね。
秋山: 本当にそんな感じでした。当時の郷田町長は綾を発展させたいという町おこしに取り組んでいたから、工業化に逆行するような私たちの手作りの工房が綾に来るのはなかなか理解を得られませんでした。
当時県職員には珍しく芸大出の黒木進さんという方がいて、この方の説得で綾に移ることが出来ました。黒木さんはものすごいビジョンと人脈を持っている人で「綾を手作りの町にしよう」ということで、全国を飛び回って力強く職人を口説いて、うるし、木工、陶芸などの職人を綾に移住させたんです。そして、昭和48年頃、これらの綾で作られた作品の展示会を東京の丸善で開催しました。宮崎出身で要職についている方々の協力もあり、この作品展が大成功を収めました。これで綾が一躍有名になったんですね。
吉田: なるほど。秋山先生やその黒木さんの力が今の綾を作っているんですね。
「染料ってもともと漢方薬だったんですよ」
吉田: ところで、秋山先生が制作されている作品はどんな特徴があるんですか?
秋山: 父は化学染色を得意としていましたが、私は自然素材の染色にこだわっています。
吉田: 自然素材の染料って何種類くらいあるんですか?
秋山: それはもう、無数にあります。木の皮を噛んでみて渋みのあるものは、全部染料になります。よく使うのは藍や照葉樹の例えばヤマモモ・ニッケ・ビワなどの皮、葉、根ですね。私はすべての歴史的に行なわれていた染色に取り組みたいと思って、江戸時代の書物などをひもといて研究しているんです。もともと人間が色の付いた服を着るようになったのは、体を守るためだったんです。それが漢方薬の始まり。例えば藍はは虫類除けとして伝わりました。藍染めの服を野良着として着るとヒルとかマムシが近づかない。それが漢方の始まりで、薬として飲むようになったのはそれから後のことです。ほら、薬は「服用」っていうでしょ。
吉田: え〜!服用!なるほど!面白いですね。
秋山: 藍はね、発酵させて染料にするんです。だから、いわゆる発酵文化を持つ民族にはほとんど藍染めの文化がある。アメリカのジーンズも元々は藍染めなんですよ。まあ、今は化学合成の藍染め風になっているけど。
吉田: その化学合成の藍染めと区別するために、先生の伝承されている「天然灰汁発酵建ての藍染め技法」がこのほど綾町指定の無形文化財に指定されたわけですね。本当に貴重なんですね。染料を発酵させるというのは初めて知りましたが、手間がかかるものなんですねえ。
秋山: 藍染めは発酵促進剤として焼酎を使うんだよ。
吉田: お酒ではダメなのですか?
秋山: 日本酒でもいいけど、ここは綾。雲海酒造のお膝元でしょ。私も地産地消にこだわって、焼酎を使ってます。何回か使って藍が疲れたときも焼酎を入れてやると元気が出るんだよ。なんと、藍にもだれやめが必要なんですね、私と同じ!(笑)
幻のマユ『小石丸』
吉田: 織物の方ですが、今は養蚕農家も減りましたよね。
秋山: 綾に来た頃は繊維に関する工場などは何もなく、自分で糸から作らなくてはならなくなりました。必要に迫られてという感じです。養蚕農家は当時綾にもたくさんありましたが、全部カネボウに抑えられていた。交渉を重ねて、織物の原料となるマユを作ってもらう養蚕農家を4軒だけ譲ってもらうことが出来ました。時代が変わって日本の養蚕がどんどんダメになっていく中、結局残っているのはうちの契約農家だけになってしまいました。
(ここで秋山先生が使用している幻のマユと言われる『小石丸』について説明します。
綾の手紬染織工房のホームページより引用)
「小石丸」
このかわいい名前のついた蚕。
日本古来の在来種の蚕です。
蚕の中では最も細い糸をはき、艶があって張力が強く、けば立たないなど優れた特性を持っています。しかしあまりにも小さく繭糸量が少ないため経済性にかけるとの理由で姿を消しました。"幻の絹"と伝説化されるのはそのためです。
この小石丸を、秋山眞和が長い年月をかけて初めて商業化に成功しました。その実現には数多くの難関を乗り越えなければなりませんでした。
昭和63年から、宮崎県総合農業試験場の協力の下、小石丸蚕の飼育試験を開始し、平成2年にようやく最初の作品を完成させませした。当時は養蚕・製糸ともに国の厳しい法律に縛られており、小石丸のような特種な品種を手に入れることは、大変困難なことでした。
また、この小石丸の本来の味を引き出すため、まゆは生のままの冷凍保存(一般的には乾燥保存)、製糸は古法の座繰り器で行っています)
貝紫で現代の名工に
吉田: 秋山先生が「現代の名工」に選ばれた当時、私はNHKのニュースキャスターをしていて、ずいぶんニュースになったのを覚えています。「貝紫」という難しい染料を復元された技術が評価されて、でしたよね。
秋山: 私が古代からのすべての天然素材に取り組みたいと思っていて、最後に残ったのがこの貝紫だったんです。貝紫は世界で最も高貴な紫と呼ばれ、身分の高い人しか着ることが出来ませんでした。日本には貝紫染めの文化は無いと言われていたので、海外の文書を研究し取り組みました。
貝紫の染料は、このアカニシガイ270個でたった1グラムしか取れない貴重なものです。このアカニシガイが有明海に多く分布していることがわかり、昭和53年から55年にこれを抽出する方法を独自にあみ出すことができたのです。ちょうど私が貝紫の技術を成功したころ、有明海近くの吉野ヶ里遺跡から貝紫で染めた糸が発見され、「古代の日本にも貝紫は存在した」ということがわかったんです。
現代の名工に選ばれ、当時は皇太子妃殿下だった美智子皇后に貝紫のストールを献上する機会があったんですが、その後、昭和59年と平成16年の後来宮の際、2回ともこの貝紫のストールを美智子さまが身につけて下さいました。
吉田: 数ある献上物の中で「これは宮崎の貝紫」と覚えていらっしゃって律儀に着けて来られる美智子皇后の心遣いも素敵ですが、それだけ秋山先生の作品が存在感を放っているのかもしれませんね。
秋山: 平成16年にもこのストールを使われたときには、さっそく新しい貝紫を改めて献上させていただきましたよ。
「伝統工芸の伝承者として、高い技術の温存し、この伝統技術を実用にも生かしたい」
吉田: さて、今後はどのような作品に取り組みたいとお考えですか?
秋山: 私たちのような伝統工芸の伝承者は、例えば文化財などの修復の依頼に応えることができるような高い技術を温存していくことが使命ととらえています。
しかしながら、それにプラスして、実用的な生活必需品の世界にもこの技術を生かしていきたいと考えています。今特に力を入れているのが日本の伝統文化のひとつである着物です。今後は、定年後の男性などもカジュアルに、本物の着物を楽しむ世の中になるのではないかと思っています。そういう意味で、着物は生活を彩る芸術品であり、実用品でもあるものなんです。今の世の中、ニセモノは消えていく運命にある。 私は「本物」を作り続けたいと思っています。
吉田: 毎年2月に日本橋三越で開催される展示会を始め、2010年には銀座和光で着物と帯の2回目の大きな個展をされるということですね。素晴らしい作品を作ってください。
今日はお忙しい中ありがとうございました。
秋山先生の素晴らしい作品はこちらをご覧下さい。http://meisan.miyazaki.ch/