朝食を済ませ、2日目まず最初の目的地は、台湾政府の中枢「総統府」です。詳しくは『台湾アドレナリンの旅』に書きましたが、1919年、まだ日本が台湾を統治していた時代に、「台湾総督府」として建設された歴史的建造物です。平日の午前中だけ1階の展示スペースのみ見学が出来るということがわかり、訪れました。
総統府。「アブラスギ」という台北では珍しい
南部の木が植えられています
見学の入り口は建物の裏側になります。銃を持った兵士が立っていて、ものものしい雰囲気です。パスポート、もしくは写真入りのIDの提示を求められます。北京語がわからなくても、日本語通訳の方がいるので大丈夫です。カバンやカメラ、携帯電話などは持ち込み禁止です。カバンは預け、貴重品だけを持って中に入ります。
他にも台湾人の団体や日本人の旅行者などがたくさんいました。私たちには日本語のボランティアのガイドさんがついてくれました。
その方は日本統治時代を経験されている方で、日本語もとってもお上手。まず始めに案内されたのは、1895年〜1945年までの日本が統治していた、歴代の台湾総督の顔写真がずらりと並んでいるパネルです。第1代樺山資紀(かばやますけのり)から第19代安藤利吉(あんどうりきち)までの歴代の総督の出身地から任期、それぞれの目立った功績などをとうとうと話してくれました。その詳しいこと!ゆうに15分はそこで時間を費やしていたかと思います。後から来たグループがどんどん私たちを追い越していったほどです。
その後、建物の図面や当時の写真を見ました。総統府を空から見ると「大日本」の「日」の形をしているということを初めて知りました。2つの中庭があり、李登輝総統時代に木が植えられ庭園として整備されていますが、当時は馬車や自転車置き場だったという話。建物の特徴として、建物の角かどには八角形の部屋が作られていること、これは建物の強度を高めるためと、そこが喫煙室として使われていて、実用的だったこと、さらに上の階から下まで滑り台方式のゴミ捨てダクトが備えられていて、当時はすごく斬新なアイデアだったなど、興味深い話がたくさん聞けました。
また、私が台湾に行くたびに、知り合ったいろんなおじいさんたちから聞くような話、つまり「当時の日本人は台湾人に教育を与えてくれた、そして台湾には生活の基盤である水道や道路、病院などを整えてくれた、今の台湾の発展があるのは、日本時代のおかげだ」と熱っぽく語ってくれました。更に、「日本人の先生方は、本当に愛情を持って生徒に接してくれた。それはまるで、親子の関係と言ってもいいくらいだった。」と言いながら涙ぐまれた時には私ももらい泣きしてしまいました。
その他、台湾全土に残っている日本統治時代の建築物の模型が飾られており、ガイドさんは「今の日本よりも当時の建物がたくさん残っていて、今も駅とか博物館とか、いろんな形で活用され、台湾国民に親しまれているよ」と誇らしげでした。
本来は1時間で見学を終えないといけないそうですが、私たちのグループはずいぶんオーバーしていました。熱のこもった案内をしていただき、総統府を出る頃には私はなんだか、当時の台湾の人と日本人の心の結びつきを深く感じ、感動を覚えていました。そして、「当時の日本人に比べてお前たち今の日本人のなんと情けない事よ。もっとしゃんとせえ!」と喝を入れられているような気持ちにすらなりました。学校で学ぶことの出来ない生の歴史を聞くことができて、とても良い経験でした。
ちなみに、皆さんご存じのように最近台湾では民進党の陳水扁総統から国民党の馬英久総統に政権が交代しました。その影響で、いろいろと変化が起こっています。例えば、陳総統時代は年に4回ほど、総統府大開放の日が設けられていて、全館を見学でき写真も取り放題だったそうですが、今後それも見直されるかもしれないということです。これは変えて欲しくないなあと、祈るばかりです。
今回は写真を撮ることができなくてとっても残念でした。
明日はお昼ご飯編!おいしそうな写真が出てきますよ(笑)
*** 2008/06/26 ***
樺山資紀が初代総督とは知りませんでした。
樺山資紀といえば日清戦争で「ちぇすと〜!」と勇猛果敢に敵艦に突っ込んでいった艦長として有名な薩摩の人物です。台湾と南九州、意外な繋がりがあるもんですね。
2008/06/26
兒玉源太郎配下の、後藤新平民政長官時代のインフラ整備はすごかったらしいですねー。
2008/06/26
まいどさま
薩摩出身の人はいろんなところで活躍していますよね。
宮崎出身の台湾総督府に赴任した方もいたようですよ。
私の知り合いにも、警察官として高雄に行っていたという人も
います。
あ!高雄と言えば、この時のガイドさんから聞いた面白い話を
ご紹介します。
もともと高雄は「打狗(タァカオ)」と表記されていました。
「犬を打つ」という意味で良くないということで、
日本統治時代に今の漢字表記に改められたということです。
ですから、北京語だと「カオシュン」と発音されますが、
日本語読みの「タカオ」の方がもともとの呼び名に近いと言えます。
実際、現地では「タカオ」と言っても通じるそうです。
話が逸れましたが、台湾の人々と宮崎の人々は、
ほんわかとした雰囲気がよく似てるなあと、私は常々思っています。
だから肌に合うのでしょうか。
2008/06/26
uranさま
お詳しいですね!
この時のガイドさんからも、日本統治時代、
最も台湾に功績を残した人物として、
第4代兒玉源太郎総督、第7代明石元二郎総督、
そして、この後藤新平民政長官の名前を挙げていましたよ。
後藤新平は元々お医者さんだったそうです。
当時の台湾は、コレラ、赤痢、マラリアなどの伝染病が
はびこっていて、またアヘン中毒患者が大勢いました。
日本から20代の新進気鋭のお医者さんを招聘し、
伝染病の撲滅とアヘンの取り締まりを行ったそうです。
その手腕は見事で、きちんとした調査のもと、慣習や風土にあった
改革を推し進めたと言われています。
もちろん、インフラの整備も合わせて。
今でも台湾のお年寄りに尊敬を集める1人です。
また、ご存じの通り、後藤新平は
満州鉄道の初代総裁としても有名ですよね。
19代にわたる台湾の総督の中には、
あの「乃木希典」もいます。
台湾の歴史を学ぶことは、近代日本の歴史を学ぶことに
つながっている気がします。
uranさまは台湾に行かれたことがおありですか?
面白い情報がありましたら、是非私にも
教えて下さいませ!
2008/06/26
お〜、宮崎にもそんな偉い人がいたのですね。スゴイです。
ご存知かもしれませんが、いま日本経済新聞で連載中の北方謙三作「望郷の道」は、日露戦争当時の台湾が舞台です。その中でたびたび「打狗」の文字がでてきます。uranさんご指摘のお二人も既に登場しました。これは新聞読むのがますます楽しみになってきました。もちろん台湾レポも楽しませていただきますよ。
2008/06/26
まいどさま
ガイドさんのお話を聞きながら宮崎出身の総督がいることを
期待したんですが、残念ながら九州は鹿児島・福岡しかいませんでした。
先日同席した方の話から、偶然「親戚が台湾総督府に行ってたよ」
っていうお話を聞いたのです。
恐らくお役人として、だと思います。
現在、経済や観光など、台湾と日本の
人民の交流は盛んですが、日本国政府は台湾を国として認めておらず、
正式な国交はないというのは、
台湾好きの私はとっても違和感を覚えます。
ご紹介の連載中の小説、知りませんでした。
面白そう!
我が家は日経を取ってませんので
単行本になる日が楽しみです。
でもまだまだかかるかもしれませんね。
2008/06/26
すご〜い!
食べ物ネタじゃないのに気合の入ったレポですね。(笑)
しっかり勉強させていただきましたので、お腹すきました。
食べ物ネタが待ち遠しい〜
2008/06/26
まいどさん
情報ありがとうございます。私も日経取っていないので単行本待ちですね。
私の後藤新平の情報は、星新一氏の「明治の人物誌」と、司馬遼太郎氏の
街道を行くシリーズの「台湾紀行」からです。
星氏の著作では50ページくらいですが、コンパクトにまとまっていて読みやすかったです。
吉田さんが仰っているようなことが書いてありましたが、今でも台湾のお年寄りに
尊敬を集めているとは知りませんでした。いいものですね。
私は仕事でですが、2度行きました。ホテルの朝食と客先での昼食、屋台をうろついての
夕食と、とても充実してましたよ。2回とも風邪をひいて、特に2回目はSAASが
大流行していた時期だったので、もう駄目だと観念したりしました(笑)。
年内には行きたいと思っています。レポート楽しみにしています。
2008/06/26
SAASじゃないや、SARSでしたね…恥ずかしい。
空港で体温測られたり、帰国後一週間は自宅待機の命令が出たり、懐かしい思い出です。
2008/06/26
Tetsuさま
今日は昼食編ですよ、お楽しみに!
台湾は歩道の段差がものすごく多いので、
自転車には向いてません。
自転車は置いていってくださいね(笑)
2008/06/26
uranさま
私も初めて台湾に行ったのは、SARS騒動の時でした。
観光地で人が集まるところに入るときなど
熱を測るセンサーを必ず通過させられたりなど
けっこう大変でしたよね。
ましてやそんな時に熱を出されたなんて・・・
お察しします。
私も屋台料理大好きです!!!
台湾を訪れるときは、食事のことを考えると
大人数の方がいろんなお料理をちょっとずつ楽しめるので
いいかもしれませんね。
お互い情報交換をしましょうね!
2008/06/26