J3・・・昔の懐古・・・
神武は、四十五の時、兄弟や子供を集め、話しました。
「昔、我らの天つ神(あまつかみ)タカミムスヒとオオヒルメ(天照大神)が
豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国を、
オオクニヌシから譲り受け、私の曽祖父ニニギに、授けられた。
当時はまだ、世は暗かったが、先祖らは、正しい道を開かれ、
この西の辺(ほとり)にて、善政により治められた。
そして、天孫が地に降ってより、長い年月が過ぎ、
179万2470余年がたった。
解説・・・
今まで読み進めてきたように、日本書紀は、
中国人に読ませることを意識しているかのように、
文体も、完全な漢文で、内容も極力、不思議な面は抑えて、
超真面目に書いているのに、
突如、1792470という、信じられない年数がここに書かれています。
古来、これは暗号ではないか、という説があります。
比較的、真面目な説を、二つだけ紹介します。
まず、一つは、
数字を単純に足し算すると、30になります。
これに0をつけて、300年のことだとする説です。
しかも古代は、春夏を一年、秋冬を一年としていたようなので、
つまり、現代的には、2倍暦なので、150年のことだとする説です。
二つ目は、
日本書紀ができた西暦720年頃には、
日本の学者は、中国の暦法を熟知していました。
この暦法を知っている人にとっては、当たり前の数値である、という説。
即ち、当時、旧暦(元嘉暦)から新暦(儀鳳暦)に切り替える時でした。
この二つの暦法の違いを説明するのに、
1792470年の長期計算が必要だと言うことを、
暦法学者なら、誰でも知っていました。
年号がはっきりしない、天孫降臨の頃から、
我々日本人は、暦のことを、きちんと知った上で、
この歴史書を記述しているのですよ、
と言う事を中国に示したいために、という説です。
J4・・・東征の計画・・・
しかし、今も、遠い国では、王の恵みが及んでいないようだ。
塩土老翁(シオツチノオジ)の話によると、
東に良い国があり、青山が四方を取り囲む美しい国があるそうだ。
その土地に磐舟(いわふね)で、天下った者がいるそうな。
その者は、きっと饒速日(ニギハヤヒ)に違いない。
その土地は、政(まつりごと)するに相応(ふさわ)しいようだ。
多分そこが、中心だ。我らも、そこへ移り住み、都を作ろうではないか。」
神武は、このように話され、東征を決意されました。
その歳は、太歳(たいさい)つまり干支(えと)で、
甲寅(きのえとら)でした。
解説・・・
ここから、日本書紀は、「何年何月に、何があった」という、
書き方になります。勿論、日付は、全て創作です。
太歳(たいさい)つまり干支(えと)は、60年で一周します。
悪く言えば、60年の倍数で、いくらでも、ごまかせる訳です。
事実、日本書紀は、中国に対して、わが国も、古いぞとするために、
神武即位を、紀元前660年にまで、
約千年くらい古くして、ごまかしています。
甲寅(きのえとら)は、紀元前667年にあたります。
神武東征は、東遷とも言います。
私は、個人的には、東遷の方が好きですが、
内容的には、戦いの話ばかりなので、今回は、東征を使います。