J26・・・最後の総仕上げ・・・
翌年、己未(つちのとひつじ)の年の春2月20日に、
帰順しない豪族たちを、打ち滅ぼしました。
添県(そうのあがた)の新城戸畔(ニイキトベ)、
和珥(わに)の坂下の居勢祝(コセノホオリ)、
長柄(ながら)の丘の猪祝(イノホオリ)、
高尾張(たかおわり)の土蜘蛛(つちぐも)などを、打ち滅ぼしました。
解説・・・
己未(つちのとひつじ)は、紀元前662年です。
この辺りは、日本書紀だけです。
添(そう)は、添上(そえかみ)郡に関連し、大和郡山市付近です。
和珥(わに)は、現天理市和珥です。
長柄(ながら)は、現御所市長柄です。
高尾張(たかおわり)は、現御所市南部付近です。
以上を見ると、奈良盆地全体を制圧したことを示す文章です・
J27・・・神武の勅旨(みことのり)
春3月7日に、神武は、部下を集めて勅(みことのり)されました。
「われが、東征を決意して、ここに六年たった。
天つ神のご加護によって、兇徒(きょうと)は全て平らげた。
ここを都と定め、立派な御殿を作ろう。
国の中心である大和(やまと)にて、都を開き、
八紘(あめのした)を掩(おお)いて、宇(いえ)にせん。
天の下のこの地上を、一つの家にしようではないか。
この畝傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)は、
真に大和の中心だ。ここに都をつくりなさい。」
解説・・・
この辺りは、日本書紀だけです。
例の、八紘一宇の基となった言葉が、ここにあります。
ここの話は、もっと長いのを、うんと省略してあります。
J28・・・大和での結婚・・・
翌年、庚申(かのえさる)の秋8月16日に、
神武は、大和で、后を迎えようとされました。
ある人の奨めにより、
媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)にされました。
この娘のお父さんは、事代主神(コトシロヌシノカミ)です。
お母さんは、玉櫛媛(タマクシヒメ)です。
三嶋(みしま)の溝橛耳(ミゾクイミミ)の娘です。
それで、9月24日に、正式に后とされました。
解説・・・
庚申(かのえさる)は、紀元前661年です。
この部分、古事記にもありますが、名前が違います。
ヒメの名前は、ヒメタタライスケヨリ姫です。
ホトタタライススキヒメとも言います。
お父さんは、三輪山の大物主神(オオモノヌシノカミ)です。
お母さんは、セヤダタラ姫です。三島ミゾクイの娘です。
この二つの話から推測しますと、
お母さんが、有力豪族である三島ミゾクイの娘であり、
即ち、政略結婚であります。
お父さんは、妻問い結婚のためか、誰の子か分らず、こう言う時、
娘を売り込む時、神の子、龍の子と言ったのではないでしょうか。
娘に通ってきた男は、渡来人の可能性は充分あります。