J14・・・エウカシ の策略・・・
秋8月2日になりました。
宇陀には、二人の豪族がいました。
兄猾(エウカシ)及び、弟猾(オトウカシ)の兄弟です。
神武は、話し合いをしようと、二人を招集しました。
しかし、エウカシは、やって来ず、オトウカシだけが参上しました。
オトウカシが、兄の策略を暴露しました。
「兄は、だまし討ちしようと、新しい宮を作り、
その中に仕掛けを作り、御もてなしと、見せかけて、
落とし穴に、落とそうとしています。」
神武は、早速、ミチノオミに確認させました。
ミチノオミは、仔細に調べた後、エウカシに、
「お前が部屋に先に入れ」と、剣と弓で追い詰めたので、
エウカシは、自分の仕掛けに落ちて死にました。
弟のオトウカシは、帰順し、酒宴で、神武らを、おもてなししました。
解説・・・
この辺りは、日本書紀も、古事記と、ほぼ同じストーリーです。
J15・・・吉野の視察・・・
この後 神武は、吉野の地を、視察されました。
最初に、井戸の中から、尾が光る人が出てきて、
井光(イヒカ)と名乗りました。吉野の首(おびと)の先祖です。
次に、磐(いわ)を押し分け、尾のある人が出てきて、
磐排別(イワオシワク)と名乗りました。吉野の国栖(くず)の先祖です。
そして、梁(やな)で魚を採る人が出てきて、
苞苴担(ニエモツ)と名乗りました。
阿太(あだ)の養鵜(うかい)の先祖です。
解説・・・
この辺りは、日本書紀も、古事記と、ほぼ同じストーリーです。
ただし、古事記では、熊野から、まず吉野に到達しています。
J16・・・敵情視察・・・
秋9月5日になりました。
神武は、宇陀の高倉山に登って、周りの情勢を、眺めました。
あちこちに、敵軍が見えました。
すると、西の方の国見丘に、八十梟帥(ヤソタケル)の軍がいました。
また、女坂(めさか)には女軍(めのいくさ)、
男坂(おさか)には、男軍(おのいくさ)、
墨坂(すみさか)には、炭軍(すみのいくさ)が陣取っていました。
又、遠く、磐余邑(いわれのむら)には、
兄磯城(エシキ)の軍が溢れていました。
いずれも要害の地であり、道と言う道は、全て塞がっていました。
神武も「これでは、大和(やまと)入りは、適わぬなあ」と当惑しました。
解説・・・
高倉山は、大宇陀町守道にある山です。
この辺りは、日本書紀だけです。
磐余邑(いわれのむら)は、奈良県磯城郡桜井町、
現在の桜井市付近の地名です。
神武の名前の、神日本(カムヤマト)磐余彦(イワレヒコノ)
天皇(スメラミコト)の磐余(イワレ)は、ここからきています。
磯城(シキ)は、奈良県磯城郡一帯の地名です。
磯城(シキ)の方が、磐余(イワレ)を含む広い地域です。