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今日は宮崎で独自のブランドを確立されているGORO'Sさんです。
社長の内田五郎さんにお話をうかがいました。

GORO'S店舗
お菓子の専門店ゴローズ
株式会社ゴローズ・プロダクツ
〒880-0844 宮崎市柳丸町156-1
TEL : 0985-23-5622 / FAX : 0985-23-5699
URL : http://www.goros.co.jp/

元々お菓子屋さんではないですよね。

内田さん1
内田五郎さん(以下 内田) :そうです。わたしは中学くらいからアメリカの文化が好きでした。でもアメリカというのは簡単に行けるところではなかったんですね。アイビーリーグの中にコーネル大学があって、そこのホテル科は世界一といわれていたんです。東京のYMCA国際ホテル学校に入学したんですが、そこから毎年1名コーネル大学に行けるという道筋があったんです。それで高校を出た後、そこに入りました。
ところが初めての東京ですし、同じ学校には全国の旅館やホテルの子息ばかりで、遊び人ばっかりなんですよ。
ですからバイトして遊んで、という生活が続き、結局学校もやめました。


そしてどうなったんですか(笑)

内田 :銀座の焼き鳥屋でバイトをしていて、結局学校も辞めて、一度は宮崎に戻ったんですが、やっぱり東京がよいということで、上京。
六本木のイタリアンレストラン、ニコラスにはいったんです。駐留軍の出身の人がやっていて、おそらく日本でも有数の老舗レストランかと。先日雑誌で見かけてまだやっているのがわかりました。
イタメシなんて無い時代で、馴染みは薄かったですね。スパゲッティが何種類もある、アオカビのドレッシングがある、アンチョビーがきついなどが印象に残っています。入り口にウェイティングバーがあって、かっこよかったですよ。おしゃれな社交場。ちょっと一杯ひっかけてから席へという感じでした。

宮崎にもほしいですよね

内田さん2
内田 :ほんと。ボーイがしっかりと礼儀正しい態度でね。
そこに1年くらいいて、ようやく網に肉を載せて焼く役目につきました。チャコールステーキといって炭火の上に金網があり焼き目をつけながら焼いていきます。この肉が半端な大きさではないんですよ。


トムとジェリーに出てくるようなやつですか

内田 :ほんとうそんなの(笑)
そのステーキのチーフが帝国ホテルの出身でもう高齢な方でしたが、とてもかわいがってくれたんです。その人はアイスクリームも自分で作っていたんですよ。たまごを割ってね。ところがその作り方を絶対に見せてくれない。それくらい料理の世界には厳しさがありました。
そのチーフが、本当に料理やりたいのなら、フレンチをやれと言われるわけです。イタリアンはあまり包丁を使わない料理なんです。包丁が使えないとなかなか一般の店では働けないということで、そのチーフは神田の洋食屋に行けと言ってくれたのです。ニコラスは二交代制で午前2時までの店でした。2時で上がって、朝、神田のランチ屋に早朝行き、キャベツを切る仕事をやれといわれました。
朝、神田に行き、仕込みを手伝う。その後ニコラスへ。神田は無給でした。でもフライなど揚げ物を覚えました。技術を覚えるためです。

ちなみにその頃はやせていらした?

内田 :ほんとうに(笑)今の半分ですよ、きっと。

料理人にはならなかったのですか

内田さん3
内田 :1年でようやくフライパンとか、切ることができるようになったんですね。そうすると今度はステーキのチーフに、山の上ホテルに連れて行かれたんです。そこのチーフも帝国ホテル出身でしたので横のつながりが強いんでしょうね。ところが、山の上ホテルに空きはないんですね。紹介状の山があって。当時は外食産業が少なく、働く場所が少なかったんですよ。
そこで、自由が丘にやはり帝国ホテル出身の方がいるのでしばらくそこで働いて空きが出たらこちらに、という話がまとまって、自由が丘の店で働くことになったんですね。
結局4年自由が丘に働くことになります。山の上ホテルは幻になりました。
自由が丘の店は金持ちのお客さんが多い店でした。二階は個室になっていて、今で言うセレブがたくさん来ていた。自由が丘は芸能人を普通に見かけるところだったんですよ。寮も完備。といっても窓を開けると電車がゴーとすごい音をたてて通る線路沿い。よく友達が泊まりに来ましたが、みんな眠れない。(笑)

この4年間はほんとうに一所懸命働きました。元々わたしは不器用で中学の工作でもだめ、車もよくぶつける、といった具合で、よく友人から料理は無理だろうと言われていました。でも仕事ですし食わねばならないのですから、人の倍働くことをこころがけました。2時間早く行って自分の担当をすませる。洗い場、野菜の掃除とか、下働きを先輩より早く行って自分の担当分を済ませて、そして先輩に、仕事を見せてください、と頼むわけです。
店内風景
今のこの業界はまったく違っていて、早く即戦力にしたい、ということで、逆に手取り足取り教えるんですね。われわれのころは、絶対に教えてくれない。なべの底に残ったソースをなめて味を見るなんて言うでしょう。そんなことさせないために、調理が終わるとすぐに水をジャーッと。(笑)肉は骨付きの枝肉で来るし、鳥もまるまま羽をむしった状態で来る。それを下ごしらえできれいに切りそろえていくわけですが、これだって見ることすら許さない雰囲気です。ぼっと見ていると、なにやってんだ!という感じなんです。早く仕事場に来て自分の仕事を終えて、遠くから先輩の仕事を見ていると、たまに、こっちきて見るか、と声がかかるんです。
人間を認めんと技術は教えない、そんな風潮だったですね。今は材料もフィレとか整ったものが来るようになりましたんで、人によっては、今のコックは鳥ですらさばけないはず。


修行ですね。時間もかかるんですよね。

内田 :ようやくフライパンをいじれるようになるのに、最低限、10年とか15年とか、かかるわけです。でもいずれは自分の店をと思っていましたんで、いろいろな経験を積みたかった。ここでずっといるのは?と思い始めたんですね。ところがやめさせてくれないわけです。その店の調理場の怒られ役でありムードメーカーになっていたこともあると思います。
でも結局やめたいと強く意思表示したわけですが、そんなやめ方をすると東京では働けなくなる(する)ぞ、というような話もあったのですが、いずれ宮崎に帰る、それまでにいろいろな経験を積みたいという気持ちもあり、やめました。
それで、簡単には働けないかもしれない、ということで、新聞の3行広告を見て就職口を探しました。
赤坂のTOPSです。いざ、面接に行くと、もうコックの空きはない、ベーカリーだったら空きがあると言われたんです。食わなければ、という状況があったので、そこでケーキを作ることになるわけです。
当時の友達の女性に聞くと、あ、そこは人気があるところだよ、といわれて、まあいいか、ラッキーかと思ったんですね。
そこは1年くらいいました。そして違うケーキ屋につとめ、トータルで8年間東京にいました。

そして宮崎に戻ったわけですね。

内田 :戻ってきて、フェニックス(国際観光)に2年につとめました。ゴルフ場の調理場とか。ゴルフ場はそばうどんも作っていたので勉強になりましたね。

そして独立ですか。

内田 :そうです、29歳のとき。時期を待つ必要があったんですね。というのも店を出すなら「若草通り」(市内中心地のショッピングストリート、若者のファッション通りとして当時人気があった)に決めていました。その中でも気に入った物件が工事とかの関係で、開店するまでまるまる1年かかりました。わたしはピザとケーキと喫茶のようなラフな店をやりたかったんです。
店は半地下の9坪のせまい店で、厨房ももちろんせまい。オーブンとかミキサーとか置けないわけです。みんな文字通り手作りでした。
地下なので、1回来た人が友達を連れてこないといけない。印象に残る店にしようとしてました。こう手を合わせて(また来てくれ)と念じて念じて(笑)
4月にオープンして、最初は友人などが来てくれて、でも夏場は暇でしたね。と思ったところで、冬はクリスマスで売上が上がってきました。
お店外観
当時(25年前の宮崎)、イートインのケーキ屋は少なかったこともよかったかもしれないですね。
宮交シティ(宮崎市南部のバスターミナルに付属したショッピングセンター)の社長さんや、宮日の社長さんなどがおみやげといってたくさん買って帰ってくれるようになったんです。かわいがってもらいました。
値段が高かったのもかえってアピールしたのではないでしょうか。まためずらしさもあったんです。


ケーキ自身違ったんですか。

内田 :食器は知人の縁で西武から入れていてちょっと違う雰囲気を出せていたと思います。今は情報誌やテレビやネットで東京と時間差がない。
当時は半年くらいの時差がありました。こちらは東京を経験し、時々行って見ていて、最新のトレンドを宮崎に持ち込んだ、と思うんですね。
ケーキ1
当時流行していたファッション雑誌やサーフィンの雑誌から「このお店」というような特集記事を開店の3年前からスクラップしていました。
実際に麻布や青山など食べ歩きました。1日ケーキを16個食べるくらい歩きました。ケーキは食べられるんですが、まさかケーキだけというわけにもいかないので、飲み物を頼むとこちらがしんどい。コーヒーとかでおなかがチャプチャプ(笑)


当時の宮崎ではケーキ屋さんというのはテイクアウト専門ですよね。

内田 :ケーキというのはみんなが食べるものではなかったですね。誕生日とかクリスマスとかだけでしょう。だから、これまでのケーキ屋さんのイメージを変えてしまったというところはあると思います。

焼き菓子はやっていなかったんですか?

内田 :焼き菓子は当時、われわれにまだ技術がなかったんですね。ケーキを6種類以上やっていました。東京で抹茶のババロアを見たら自分でレシピを作って、という感じで、試行錯誤しながらメニューを増やしていったんです。TOPSで学んだチョコの技術も活かすようになったし。
クッキー
ピザは最初やっていたんですが、すぐにやめました。なんせ厨房が小さくてオーブンがおけない。根性と腕力で泡立ていました。開店までにフル回転で仕込みをおこないますが、数ができないので夕方には売り切れ。遠くからも来てくれるようになったんですがね。年中無休、男の社員1名とアルバイト3名くらい。足りないときにはお客さんを店員に頼んだり。仕入先の乳業メーカーの女子社員が会社に内緒で手伝ってくれたりしました。
そんな中、宮交シティが20坪空くよという話があり、そこに移りました。今度は広いので、それでオーブン、ミキサーも買いました。一度に20台くらいのスポンジが焼けるようになったわけです。


さきほど焼き菓子はまだ技術がないという話でしたが。

内田 :ここから焼き菓子の話になるのよ(笑)
宮崎駅の裏(東口)に、友達がバブルの頃、土地を買ったんですね。小中高の同級生だった彼がビルを建て、テナントで入れというんです。家賃が4万円。広さは100坪。半分義理みたいなところもありましたが、ここが夜は真っ暗、とんでもないところというのが第一印象。
そこが10年くらいで、日本で3番目くらい売れる店となったんです。1店舗で年間2億5千万円。見学ががんがん来ました。遠いところでは北海道からも。

なにがよかったんですかね。

内田 :立地がよかったんですね。駅につきあたる新しい計画道路だから、道幅は広いけど交通量が少ない。女性は大きな道路の店には駐車の関係で入りにくいそうです。うちの店は逆に入りやすかったんですね。そして、目の前に厚生年金会館があり、行事や講演会が開催され、おみやげとかで買ってくれる。バスごと来店なんていうのもありました。
でも、最初はケーキだけで100坪の店というのはありえないわけです。
そこで「どんげしようか」(どうしようか)と悩んだわけです。

実際どうされたんですか。

内田 :薩摩蒸気屋という鹿児島のお菓子屋さんがあるのですが、ここをプロデュースした会社が東京にあったんですね。そこにコンサルをお願いしたんです。東京の事務所を家内と訪ね、蒸気屋さんはすばらしい、と切り込み、自分について浪花節的な自己紹介をしたら、先方も気に入ってくれて、昼食をはさんで5時間、みっちりと話をしました。
パッケージ
プロデュースをお願いすることになり、店舗から、商品のデザインからすべてに関わってもらいました。結局1千万円くらいかかりました。その後もいろいろなことをお願いして数千万はかかっていると思います。
焼き菓子は横溝はるおさんという デメル ハクスブルグ家のという著名な方をを連れてきてくれて指導してもらいました。広島の有名なお菓子屋さんからも指導してもらったんです。


かなり当初より本格的になってきましたよね。

内田 :そう。展開がかなり変わってきた。最初は自分の店をもてればというのから大きく展開するようになったんです。現在は県内に9店舗、年商6億円くらいです。5年前には最高8億円くらいの売上になりました。しかし、少子化で誕生日ケーキは減る一方。他にもコンビニの台頭は影響があります。似たようなものがコンビニやスーパーで1個から買える。ケーキ屋さんではなかなか1個というオーダーはしにくい。それと大きな影響を与えているのは携帯電話です。

携帯ですか?

内田 :携帯電話の毎月の料金が重要な予算金額になっているんです。昔だったら洋服やケーキに回していた金を携帯に優先するようになった。これは大きいと思いますよ。
また、経費節減での贈答が減ったことも影響しているでしょう。
ケーキ2
競合店も増えているのもあります。価値観が変わって一生サラリーマンから独立する人も増えています。入りやすさからサービス業へ入る人も多い。
当社においては、夏が暇なんです。正月、バレンタイン、クリスマスと考えると冬の時期を想定して社員を入れているが夏に人件費が負担増になるというパターンがあったんです。そこでパートさんの活用、効率化をはかるため、たとえば日南店はこちらで作ってもって行くというデリバリーにしました。ですから年商8億の頃と6億の今と収益は同じなんですね。


今の社員数は?障害者の方も積極的に入れてらっしゃると聞きました。

内田 :障害者の方は今5名ですね。全体で50名ちょっと、パート入れると100名以上になります。

求人難とかないですか

内田さん3
内田 :うちはないです。毎年高卒を入れているんですが、しっかりと試験を受けてもらう。うちは県内でも中山間地の人が多いんです。高千穂、日之影、椎葉、西米良など。
そのために寮を持っています。これは一種の社会的義務かな、と。昔、橘通り(宮崎市の中心市街地にある商店街)の商店主が同様にやっていたらしいです。
地元の人を採用したほうががコストは安いんですが、なぜそうするかというと、それは自分が寮暮らしを東京でしていたからかもしれません。いろいろな経験をしてもらいた、それが社員ひとりひとりのマインドを形成していくと思うんですね。自分もその頃の経験や思い出が自分の人生に大きく影響を残している。学校の先生もそのあたりはよく理解してくれます。


マーケティングの面について教えてください。商品の企画、販売促進について留意されているところはありますか。

内田 :社員の教育に力をいれています。これが会議の資料です。(大きなファイルを広げる)月1回昼から4時まで製造と販売で別にやって6時から全体でやるようにしています。
当社の社員は平均22,23才で若いんですね。店長もほとんどが女性です。彼女たちがこの報告書を書いてきて討議をするんです。
お客さんの声をどうひろっていくのか、新商品の企画もこの会議で協議します。そこからわかるのは彼女たちは、お客さんの立場で考えているということです。
店長には部下をかならずひとりつれて来いと命じています。それにより、部下もがんばろうという参加意識が生まれるわけです。

この報告書の中にはいわゆるウォンツスリップ(wants silp)を含んでいますね。

内田 :なんですか、そのウォンツスリップとは

スーパーやコンビニには当たり前のように設備されている、POSシステムの弊害が存在しているんです。たとえばAというシャンプーがあるタレントが使っているということが番組などで紹介されるとします。みんな同じAが欲しくて、お店に行くとしましょう。そこでAは在庫がなくなっていて、よく似たBというシャンプーがあったとします。
一部の人は他の店に捜しに行くわけですが、中にはBでとりあえず間に合わせるという人もいるわけです。POS上ではBの売れ行きがよいように見え、本来お客さんがAを欲しがっている要望(ウォンツ)が見えなくなる(スリップ)するわけです。

内田 :それはどう防げばいいんですかね。

ここにあるように従業員の方がなんでもお客さんのひとことを記入することでしょうね。
従業員の気持ちが大事です。それを集約する仕組も必要です。

内田 :これが毎日の日報です。ここまでやっているの、若いスタッフがここまでやっているのと驚かれるんですよ。

これをデータベースにするとすごいものになりますね。

内田 :これを書いていくことによりみんな意識が強くなった。

今後、こういう展開とか新しい展開とかありますか

焼酎ゼリー
内田 :商品がソフトと考えればソフトの充実ですね。時代に合った商品が必要です。今、携帯電話とかいろんなものが競合する状況ですから。
たとえば、地元産品が注目浴びている今の状況を最大限利用して、地元産品を取り組んだ商品を作っていきたいと考えています。
東京の大手ホテルに7000個くらいゼリーを納めています。地元産の果物のゼリーなんです。知人にジャムを作っている人がいて、東京など、大手に出しているのですが、ジャムを作る際に出る果肉や皮がもったいないんですね。その人から相談があって、ゼリーを作ろうとしたんです。
実は、大手の依頼で焼酎ゼリーを作ったんですが、そのパッケージングの機械を購入して、もてあましていたところだったので、これはちょうどよいとゼリーを作っています。宮崎のブルーベリー、マンゴー、北方の千代姫(桃)、日向夏の4種を作っています。

けっこう行き当たりばったり(笑)というか、ラッキーですよね、巡り会わせがよいというか。

内田 :そうなんですよ。みんなが助けてくれる。だからわたしもみんなを助けたい、助けられるものを持っていれば。
僕の仲間の、横浜にいる料理の鉄人がいて、うちの社員はそこに技術指導を受けにいっているんです。そこで出た話なんですが、おみやげにマンゴーやそのジュースを持っていったらその店でもそれでいろいろと作ってみようとなったんです。マンゴーの消費を増やしたんですよ。
世の中が都会志向、都会化都会化している中で、宮崎はよい素材が多い。その素材を活かして商品を作ることは大事なんですよ。

新商品はありますか。

内田 :チョコレート商品を出します。「そのまんまチョコ」です。(笑)
某知事の似顔絵の顔をかたどったものです。どうしてこれを思いついたかというと、お土産にいろいろな商品があるのですが、高校生から20代までの若い人のおみやげがないんですね。それで配っても喜ばれるおみやげとしてチョコを考えたわけです。
この夏場に売りまくります。

最後に会社をやってきてなにがよかったですか。

内田さんと従業員さん

内田 :社員みんなが成長してくれた、それが一番うれしいですね。社員がうちの財産だと思うんです。

お忙しいところ、長時間ご対応いただきありがとうございました。

[P.6/8]